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2011年3月

2011年3月29日 (火)

2:46(7)

翌朝になっても水が退かず、近くの石油コンビナートが燃え上がって黒煙を巻き上げた時は、このビルに燃え移ったら終わりだ…と覚悟したと言っていました。最後には、ロープを水のないところに投げて絡ませ、発泡スチロールの大きな箱を舟にして、ロープを伝って脱出したそうです。そして、瓦礫や車が積み上げられ、折り重なっている隙間を歩いているところに、その日休暇だった同僚が車で迎えに来てくれ、皆で乗り合わせて帰ってきたとのことでした。

震災から丸二日後、配られた新聞を見て初めて、凄まじい現実を知りました。想像を絶する津波、福島原発事故…家を無くし、家族を亡くし、被災されている多くの方々のことを知りました。電気が復旧し、テレビで初めてその現実を目の当たりにした時は、涙が止まりませんでした。私の体験等比べものにもならない人々の苦しみが、胸に突き刺さるようでした。

それ以来、或ることを毎日続けようと心に決めました。私の力等微々たるものですが、毎日少しずつでも積み重ねていくことで、被災された方々の僅かながらも助けになれば…と、思っています。

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2:46(6)

子供達の「パパはいつ帰ってくるの?」という、前日から何度も繰り返された問いに答えようとした時、玄関でガチャガチャッという音がして「みんな無事か?!」と主人が入ってきました。目は爛々としていて、一瞬別人のように見えました。顔を見た途端、私の緊張はほどけ、その場に座り込みました。力が抜け、涙が溢れました。

主人は危うく津波に巻き込まれるところでした。地震では無事だったと私にメールをくれた後、津波警報が鳴り、皆でビルの上にいたそうですが、しばらく気配なく数人が下に降りかけた時「来たぞ~!!」と怒鳴り声がして、慌てて4Fまで昇ったそうです。道路のマンホールが吹き飛んで水が溢れ出し、その上を津波が覆っていきました。主人の目の前で愛車も流れていったそうです。おもちゃみたいだった…と言っていました。その後も水が退かず、主人は同僚と共に真っ暗闇の中で夜を明かすことになりました。その場にあった段ボールやクッション剤を体に巻き付けて暖を取ろうとしたそうですが、あまりの寒さで殆ど眠れなかったそうです。

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2:46(5)

翌朝、良く眠れずに早く目を覚ました子供達と出掛けました。何度も公衆電話に並び直しては主人と主人の実家、東京の私の実家にかけましたが、繋がったのは東京だけでした。知り合いの方に逢う度に主人のことを聞かれました。仙台港近くにいた筈で、連絡が取れず未だ戻らないと言うと絶句される方もいらっしゃり、私の心はますます重く沈んでいきました。店先だけ開けている八百屋さんに並び、少しの野菜と果物を買って自宅に戻りましたが、出る時に玄関に貼っておいた書き置きがそのままになっていて、未だ主人の姿はありません。初めて強い絶望感に襲われました。戻ったら、きっと帰ってきていると、私は無意識に思い込もうとしていたのだと、その時初めて気づきました。

大丈夫、大丈夫…と呪文のように唱えながら、家の中を片付け、子供達に買ってきたものを食べさせ、主人の帰りを待ちました。あの凄まじい揺れから24時間が経とうとしていました。

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2:46(4)

地震直後には「大丈夫」とのメールがありましたが、港のすぐ近くにいた筈です。もしかして、その後の津波に巻き込まれたのでは…何度打ち消しても、恐ろしい想像が首を擡げてきました。

用意してあったラジオは手動で携帯充電器やライトもついたタイプのもので、ハンドルを回している間しかラジオを聴くことが出来ず、また何度も通話やメールを試みて消耗してしまった携帯の充電するのにも使用していた為、断片的にしか津波の様子はわかりませんでした。

日が完全に落ちてしまうと、小さなランプの光はますます暗く心細く感じられました。ベランダから外を見ると、見渡す限りの全ての住居の明かりが消える中、大渋滞の車のライトだけが、連なって光っているのが見えました。きっと主人の車も渋滞に巻き込まれているのだ、今夜中には帰ってくる…何度も目を覚ます子供達を寝かしつけながら、一睡も出来ないまま長い夜が明けようとしていました。

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2011年3月28日 (月)

2:46(3)

ブロックが崩れたり、アスファルトが押し上げられてボコボコしている通学路を歩いて学校へ向かいました。長女の無事な姿を確認し、主人にメールの返事を送ろうとしましたが、もう繋がりませんでした。

長女達は上履きのまま、ランドセルも靴も教室に置きっぱなしのまま、コートだけは担任の先生が皆に投げて渡して下さっていて、羽織って校庭にいました。先生とお話ししてから帰る時、冷たい雪が降り始め、マンションに戻って間もなく、吹雪のようになりました。

まだ明るいうちに、私は非常持ち出し袋を開け、ラジオとランプと懐中電灯を取り出しました。食べ物と飲み物と日用品がどれだけあるかも確認しました。数分おきに続く余震に怯える子供達の体を拭き、パジャマに着替えさせました。キッチンを片付けて、簡単な食事を済ませ…その間、何度も何度も主人にメールを送ろうとしました。通話をしようとしても、呼び出し音さえ鳴りませんでした。

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2:46(2)

現実とは思えないような揺れはやっとおさまり、私は恐る恐る家の中を見回しました。

キッチンの冷蔵庫と食器棚には、天井との間に突っ張り棒をしてありましたが、10cm以上どちらも動いてしまっていました。冷蔵庫が食器棚を押したようで、食器棚の突っ張り棒は耐えられずに下に落ちていました。先程の地響きのような不気味な音は、冷蔵庫の足踏みだったのだ…と思い当たりました。食器棚の扉は一部開き、キッチンは足の踏み場もない程、割れた食器類が散乱していました。壁には何ヶ所も亀裂が入り、ガラス戸は振動でロックが解除され、戸が開いてしまっていました。家中落ちたもので散乱したまま、まだ余震の続く中、薄暗い非常階段を、怖がる次女の手を引きながら降りていくと、1Fロビーは人でいっぱいでした。上の階のほうに住んでいる方が「小学校の校庭に、生徒達が出て来るのが、上から見えた」と教えて下さり、急いで長女を迎えに行きました。

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2:46(1)

携帯の緊急地震警報が鳴ったのは、自宅マンションにいる時でした。急いで次女を抱きかかえてリビングのドアを開け、廊下へ出るか出ないかという時(警報が鳴ってから僅か数秒でした)凄まじい揺れが襲ってきました。ミシミシ…メリメリ…と建物の軋む音、壁に亀裂の入る音、ドドドド…という地響きのような音、家中から物が落ちる音、割れる音がしました。リビングの花型の照明は振り子のように大きく揺れ、天井にガ~ンガ~ンと打ちつけていました。立っていられず「怖い…怖い」としがみつく次女を抱きしめながら、廊下に座り込みました。その揺れはおさまる気配を見せず、耐震用マットの上で何とか持ちこたえていたテレビがガタガタと踊るように動き出し、今にも倒れてしまいそうでした。

一旦おさまりかけた揺れは、また再び襲ってきました。私達はどうなってしまうのだろう…まだ学校にいる長女は、仙台港近くにいる筈の主人は大丈夫なのだろうか…

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2011年3月21日 (月)

蘇る名演(5)

今まであまり意識したことのなかった、その和声の美しさに、私はただただ驚き、その部分が演奏される度にウットリと聴き惚れました。やはりそれはノクターンの時のように、主役ではない演者にスポットライトがあてられ、その生涯の思いがけない美しさとドラマに感動するような心地でした。何故今まで、こんなにも美しい音楽を聴き流してしまっていたのでしょうか。或るチェリストが「音楽の中に、沢山のシークレットという宝物がある」と仰っていたのは、きっとこのことなのだ…と思いました。奏者によって、そしてその時々によって、美しいと感じ入るところは違うのでしょう。シークレットを発掘し、磨き上げ、芸術として昇華していく行程は、どんなに満ち足りた作業であることでしょうか。

短いリサイタルではありましたが、私の心は驚きと感動で満たされ、改めて音楽の崇拝者であることの喜びを噛み締めていました。

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2011年3月20日 (日)

蘇る名演(4)

ドラマチックな演出をひっそりと縁取る飾りのように、T先生を思わせるあの悲しみが、ノクターンの中に浮かび上がっては消えていきました。あの悲愴を感覚を、直接受け継がれているのだということが強く感じられ、胸が熱くなりました。

イタリア語で「冗談」という意味のスケルツォ…シューマンが「冗談が黒い服を着て歩いている」と評したように、ショパンのスケルツォは、言葉の意味とは違い、重く情熱的です。テンペスト、ノクターンと、新しい音楽の扉が開かれ、思いもしなかった世界へと羽ばたいた心が、スケルツォでは、ショパンらしいショパンを聴かせて頂き、自分自身へと戻ってきたような気が致しました。

アンコールの黒鍵のエチュードの中で、私はまた心揺さぶられる美しい音楽と出逢いました。軽やかに舞い、聴く者をも宙へ誘うかのような右手の音と共にある、17~18小節目と21~22小節目の左手の音楽です。

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2011年3月17日 (木)

蘇る名演(3)

聴き馴染んだ筈の音楽の中に、蓄積された民族の血のようなものが、痛みと共に流れているのを感じました。あのように胸を締め付けられ、一音一音が涙の雫のように心に染み入るショパンは初めてでした。

T先生の音楽がまざまざと蘇り、胸の痛みを覚えた時、私は思ってもみないテンポで始まったノクターンに驚き、彼女の音楽に引き戻されました。もしこの曲を聴いたのが初めてであったなら、大曲と錯覚してしまうような、ただならぬ雰囲気を漂わせたテンポでした。これは本当にあのノクターンなのだろうか…第1番第2番共、まるでオペラのクライマックスを観ているようでした。普段はサラリと聴き流してしまうような一音にまで神経が行き届き、クローズアップされていました。それは、普段目立たないエキストラ達にもそれぞれのドラマがあり、オペラではそのたった一部分を観ているだけなのだと思わせるような奥行きを感じさせるものでした。

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蘇る名演(2)

研ぎ澄まされた音だけで構築されたような、隅々まで彼女自身の真摯な音楽で満たされているようなテンペストでした。ベートーヴェンの音楽はこれ程までに軽やかで柔らかく、それでいて、決してブレることのない、しなやかな芯で貫かれているのだと、私は彼女の音に浸りながら感じていました。

ノクターンの中でも特にポピュラーな第1番と第2番をどのように演奏されるのか…その時、私の心に蘇っていたのは、彼女の師であるW.T先生のリサイタルで聴かせて頂いたショパンでした。ノクターンだけでなく、ワルツやマズルカも演奏されていたと思うのですが、それらは全て胸が痛くなるような悲しみに満ちていたのです。個人が一生のうちに味わう悲しみとは次元を画した、何代もに渡り、受けてきた様々な苦しみや痛みが、長い年月をかけて削ぎ落とされ、美しい結晶となったような音楽が、ホール中に悲しく響き渡りました。

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2011年3月11日 (金)

蘇る名演(1)

昨秋、久し振りにピアノソロリサイタルに行く機会に恵まれました。休日の午後、一時間程のミニコンサートでしたので、主人に子供達をお願いして出掛けました。

そのロシア人ピアニストの方はA.M先生と親交があり、彼女自身だけでなく、彼女の師であるW.T先生のリサイタルも度々聴かせて頂いておりましたので、久し振りにその生の演奏を耳にすることが出来る喜びに胸を踊らせながら開演を待ちました。曲目はベートーヴェンのテンペスト、ショパンのノクターン第1番と第2番、そしてスケルツォの第3番でした。

テンペストは、ベートーヴェンが30代前半の頃の作品です。耳の病を患い、苦悩や痛みと共にあった筈のベートーヴェンが、このように強くしなやかな生命力と、洗練された美しさをも併せ持つ曲を生み出すということに、感動を覚えます。久し振りに生で聴いたテンペストは、何と美しかったことでしょうか。

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